1:相葉和彦の章

東京都あきる野市は、平成7年に秋川市と五日市町が合併して誕生した、新しい
市。新しい市と言えば、全国でも、その傾向は、進んでいる。埼玉市がいい例だ
ろう。都市政策は、東京都の首都移転問題を含め、全国各地で都市発展のメカニ
ズムを解明している明治大学の教授を始め、都市政策という学問は、大学の政治
経済学部で学ぶ事が出来る。(株)インターシリーズで歌手・モデルとして、芸
名相葉和彦で登録している、本名高橋希充彦は、明治大学の政治経済学部出身だ
が、この作品を書いている僕も、大学を7年かけて、卒業した理由は、はっきり
と明かす訳にはいかない。この作品は、自伝では、なく、実は、壮大な歴史小説
なのだから。相葉和彦は、卒業した2002年3月のその前の年の2001年の
4月、大学4年時に六本木にある放送作家教室の本科で脚本の書き方を学んだ。
最初のうちは、脚本家兼役者を目指そうと思っていたのだが、大胆不敵にも、B
IG3と言われる芸能界の大御所、タモリ、明石家さんま、ビートたけしの座を
狙おうとして、放送作家兼お笑い芸人として、山中企画の元で2004年の4月
6日から、お笑い芸人の修行を始め、資金を貯めたところで、放送作家教室の研
修科や浅井企画の放送作家セミナーで、放送作家の修業を始めようと思っていた。
その野望の裏には、長年続いた長寿番組『笑っていいとも』をタモリさん、亡き
後に、『これって、ダイナモ』というバラエティ番組を自分で作って、自分でM
Cを勤めるという28歳にもなって、夢を追いかけるのは、やめろよと笑われて
しまう浅はかな考えを持ったタレント。それが、相葉和彦である。両親にもよく
言われる。

「だから、言ったでしょ。フルタイムで仕事する程、体を鍛えていないあなたに、
芸能界に向いてないのよ」

そう言う母親の高橋真由美。

「希充彦、歌は、才能なんだよ。美空ひばりには、とてもかなわないだろう。3
歳で喉自慢で優勝する子だって、いるんだから。スポーツと歌は、天賦の才能な
んだよ」

そう言う父親の高橋隆一。
しかし、僕は、両親の反対を押し切って、芸能界、作家、映画監督、この人は、
分裂気味の性格なのかと言われても、全く気にしないよう日々、あらゆる努力を
続けている。ネット友人のマロニエさんにも、非常に感謝の言葉が見つからない。
彼のサイトに小説を載せ続けているうちに、作家の才能が開花したような自己陶
酔に酔いしれている。しかし、実際のところ、ウェブ作家として、文芸社に登録
してあるし、この作品を読んで、何を感じるか、感想を色んな人々から聞いてみ
たいものである。差別用語で申し訳ないが、下層階級の人から上級階層の人まで。
どんな感想でもいい。それが、僕の支えとなるのだから。ここまで言ってしまっ
て、この作品がエッセイではなく、歴史小説だというには、訳がある。それは、
知る人ぞ知り、知らない人は、知識人じゃないと言われる『五日市憲法』の存在
だ。東京都あきる野市の深沢渓の深沢家土蔵で発見された私疑五日市憲法草案。
それは、昭和43年東京経済大学教授色川大吉らにより、五日市深沢家旧宅の土
蔵より発見された。人権意識の成熟度において、既存する民間憲法中屈指のもの
とされ、民衆憲法として反響を呼び起こした。発見者らによって「五日市憲法草
案」と名付けられた。その条文は、全文204か条。大日本帝国憲法76条、日
本国憲法103条。何だ、憲法は既存のものじゃないかと思う人もいるかもしれ
ないが、これを作った人々の苦労は、知らない人の方が多いはずだ。相葉和彦は、
2003年の9月8日から、9月10日にかけて、五日市町を訪れ、資料を集め
た。最初の8日は、五日市町の図書館で、文献のコピーをしただけだった。郷土
館で五日市の昔の地図や交通機関、憲法案を手に入れたかったのだが、月曜と火
曜日が休館とは、知らなかった。
父に、

「だから、ちゃんと前もって調べておいた方がよかったのに。電車賃の無駄でし
ょ」

と言われたのだが、それも無駄ではなかった。武蔵五日町の駅を出て、手前から
右の方の青梅街道に向けて、歩く事、5分程度の所に、おいしいうどん屋がある。
そこで、火曜と水曜、二日続けて、飲食した。うどん屋さんに着くやいなや、初
日は、鴨せいろ、次の日は、野菜八宝菜うどんを食べた。うどん屋さんのおばさ
んに、
「いやー、実は、五日市憲法の事、調べにわざわざ遠くの方からやって来てるん
ですけどね、郷土館が休館でしたので」

「あら、平日なのに休みってのは、変ね」

「僕、放送作家の見習いやってんですよ。今度、五日市憲法の事について、番組
化しようと思いましてね」

「五日市憲法は、この町でしか資料が手に入らないものねえ。確か、この町から
出身した人で、教育法立てた人知ってますよ」

「へえー」

僕は、うどん屋さんなのに、色々話せるものだと思ったが、田舎町なので、親し
みやすかったのかもしれない。

「今日は、休館だったので、図書館行っただけで、肝心の憲法が手に入らなかっ
たので、困ってたとこですよ。電話しようとも思ったのですが、朝早く出掛けな
いと資料がまとまんないんです」

「そうですか。テレビ化されたら、楽しみにしときますよ」

明くる日の水曜日、やっと、3日目にして、郷土館を訪ねる事が出来た。僕は、
父から借りたデジカメで、貴重な昔の地図、交通機関の展示を全てカメラに納め
た。そして、五日市憲法についてと深沢家の資料を購入した。一つは、ただで、
もう一つの五日市憲法案の資料については、約900円かかった。
お腹が空いてきたので、また例のうどん屋に足を運んだ。郷土館があるのは、五
日市町の警察署の脇で、うどん屋さんまで歩くと、武蔵五日市駅の方向に向かう
んで、10分程歩いた。残暑が照りつける厳しい暑さだった。10分だけでも、
汗がだらだら出る。途中で、みかんの缶ジュースを飲んだ。
うどん屋についた。

「いらっしゃいませ!」

「やっと、郷土館行けましたよ」

「よかったですねー」

「これで、僕のテレビ化も夢じゃありませんね」

うどん屋さんのおばさんは、笑いながら、

「そうですね。苦労が報われましたね」

と言った。野菜八宝菜うどんは、本当においしかった。白菜が味の効いたダシに
手打ちのうどんがとてもおいしい。

「ここのうどん、おいしいですよ」

「ありがとうございます」

「それじゃ、会計を」

「1050円になります」

「ごちそうさまでした」

自宅に着いたのは、1時50分頃だったと思う。
さっそく、『五日市憲法について』の資料をまとめた。
2003年9月17日、六本木の放送作家教室で600円ライブがあった。
マセキ芸能社のお笑い芸人が二組来た。ハレルヤと星野卓也。先生である大倉徹
也氏が呼んできたのだ。

「ご紹介致します。ハレルヤは、なかなか面白いコントをやります。星野卓也は、
この前、ライブ見に行ったけど、不思議な感じのするコントをしますね」

そのライブでは、笑いはそんなこだましなかった。男の客の方が多く、教室は狭
いため、見苦労するのだった。
ライブが終了した。ハレルヤと星野卓也が黒板の前で椅子に座っている。大倉徹
也先生が、

「それでは、感想を一人一人どうぞ」

僕の番に回ってきて、

「ハレルヤは、こんな狭いところでよくあれだけの事がやれると思いました。星
野卓也さんは、スピードが小気味よくて、面白かったです」

皆の感想が終わったところで、質問コーナーとなった。僕は、二番目に手を挙げ
た。

「星野卓也さんは、しりとりをコントでやってましたよね。僕の高橋希充彦って、
名前が出た時に、うまくしりとりがつながりましたが、あれ、アドリブで考えた
んですか?」

「いえ、あらかじめ、パターンを作っといて、表現します」

「すごいですねー!」

単純な僕の答えに、教室は笑いがこだました。
大倉徹也先生が、

「この二組に誰か台本を書いてみようと思う人は、いないのかね?」

と聞いて、僕が、

「劇団ひとりって、ありますよね。僕もあの人用のコント考えてるんで、よろし
かったら、台本書きますが」

「ありがとうございます」

「君は、何でもやるんだなぁ」

大倉徹夜先生は、感嘆し、
星野卓也は、冷静に言った。
大倉徹也先生の感想としては、

「ハレルヤは、何だか、人生の悲哀感じるなぁ。ああゆうのって、お年寄りとか
が見たら、何だか可哀想に思えてくるけどなぁ」

「そうですね。僕たちも何も考えていなかったんで」

続いて、星野卓也についての感想を言った。

「星野卓也は、喋るスピードが速すぎて、私ぐらいの歳になると、聞きづらい面
があるよなぁ」

こうして、600円ライブは、終了した。

「研修科と私と飲みに行きたい人は、残ってて下さい」

「君、五日市には行ったかね?」

「はい。まだ、資料は完成しておりませんが」

「いや、行ったんなら、よかった」

大倉徹也先生は、どうやら安心したようだ。
飲みに行く途中、先生に、

「それにしても、いい町でした。五日市は」

「ためになったろ」

「ダメだ。席がいっぱいだ」

付き添いの人達はがそう言ったにも、関わらず、僕が案内した喫茶店で、僕だけ、
アイスコーヒーを注文してしまった。
しょうがないので、その喫茶店の向こう側にあるアメリカンバーへと行った。裏
には、僕の所属事務所、(株)インターシリーズがある。
その日の飲み会は、にぎやかに終わった。飲み会と言っても、まだ夕方4時なの
で、お酒を飲む人は、誰もいなかった。ここで、僕は、隣にいた人にもうこの放
送作家教室には、来ないよと暗示させるかの言い方をした。
夢は、つぶれてしまったのか?大倉徹也先生が、

「これは、チャンスですよ」

と認められた作品は、とうとう完成しなかった。
それから、2004年3月、僕は、五日市憲法の事を知ってもらいたくて、この
作品を書いた。『五日市の影』という題名で。
これは、すなわち、五日市憲法の主導権を握ったかと思われる影の功労者、千葉
卓三郎と五日市憲法番組を再び、挑戦してみようと思う影の立役者、相葉和彦の
物語である。



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